月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

12.恋でなく



すべてを諦めのうちに受け入れて、沈黙するが安らぎか。
諦められぬ痛みの先に、乗り越えた悲しみが幸せを運ぶのか。
人々の様々な想いを絡めながら、それでも時は過ぎ、季節は廻る。
月が満ち、朔け、また満ちゆくも、春の華が惜しまれながら散り去り、またふたたび春の訪れを待つのも然り。
それが、天を廻る星々の理である。

◇◆◇◆◇

よく晴れた、夜の空。そこに、月はない。
心が、ざわめき、きしむような悲鳴をあげる。
以前のように、眠れるようになったのに、やっぱり月のない夜は、辛い。
如何ともし難い心を抱え、夜露に濡れて歩くうちアンジェリークは森の湖にきていた。

闇の内に、静かに水おとが響く。
静寂。
けれど、音のない世界ではない。
夜風が木々を渡る音、愛を語る虫の音、そしてさらに耳をすませば森に生きる動物達の密やかな寝息さえも聞こえてきそうな。
不思議ね、闇の中の方が、生命の営みを感じる。
アンジェリークはそう感じた。
いままで見えなかった、いや、見ようとはしていなかった世界。
それとも、はじめから「見る」ものではないのかもしれない。
この身体で、感じ取るべきもの。

湖のほとりに1本の大樹が茂り透明な水面に青い影を落としている。
大きく伸びた枝が何だかアンジェリークには
『こちらへおいで』
と、両腕を広げているように思えた。
大樹に歩み寄りそのざらりとした感触の幹にほほを当てる。
―― あなたの内側に流れる生命の水の音が聞こえるわ ――
暫く彼女はそうしていると、いきなり枝に手を掛けると樹によじのぼり始めた。
少しでも高く、あの、空の近くへ ――
といっても、動きづらい服のため、それほど高くは登れなかったのだが。
幹に腰掛けると、じっと、空をみつめる。
どのくらい、そうしていただろう。自分を取り囲む大気の中にある気配を感じ取る。
静かな、安らぎの気配。
ああ、私は、今闇にいだかれている。 今、闇をいだいている ――
「そこで何をしている」
ふいに聞こえる、微かに怒り、いや、痛みだろうか、それを感じさせる、それでも美しい声。
単純に木登りを責めている訳ではない、何らかの感情が、その声には明らかに含まれていた。

「月をみていたんです」
アンジェリークの静かな応えに美しい声の主はピクリと眉を不快げにひそめる。
月など、どこにある?瞳はそう言っていた。
ないからこそ、おまえは眠れずにここにいるのだろう?そして、自分も。
―― おまえは、忘れていたい遠い昔を、否応無しに思い起こさせる。
はじめて出逢った時、同じようにその樹の上で世界をみつめていた、今はもういない天使のことを。
以前、飛空都市の森の湖でも同じようなことがあったな、と、クラヴィスは思い出す。 けれどその時とは決定的に違うものがあった。
それは、アンジェリークの瞳だ。
―― 時の廻りの中で、彼女は変わったのだ。
そうクラヴィスは思った。全く変わることのない自分とは対照的に。
だが、抱える痛みは、どうしてここまで似てしまったことか。

アンジェリークは話し出す。 その言葉は、以前、飛空都市でクラヴィスに語ったものと同じであった。(註・「鵺の啼く夜・第2夜」参照)
「お月さまは、あるんです。確かにあそこに」
そして天を指差した。
「ただ、私達には見えないだけ。見えないから『無い』って言ってしまうのはおかしいと思いませんか? たまたま太陽に背を向けて、お月さまは少し、拗ねているだけなんです」
くすりと笑みを漏らす。
長い間、こんなこと、思い出しもしなかったのに。
月のない夜には、あの惑星を、あのひとを思い、沈んでいるばかりだったのに。
クラヴィスから幽かに感じられていた怒りの気配が姿を消す。
それを合図にしたかの如くふわりとアンジェリークは地面に降り立った。
まるで、天使が闇をいだいて空から舞い降りたかのように。

「お散歩ですか?」
アンジェリークはクラヴィスに歩み寄る。
「ああ、おまえもか」
溜息にも似た、微かな呟く声。
―― どこかで夜啼鳥の声がする。

そのとき、ふたりの視線がぴたりと重なった。
なぜだろうか。
そらせない。
再び聞こえる夜啼鳥の声。
みえない力で互いが引きつけられているかのように感じた。
そらさなければいけない。
そう、心が叫んでいる。
でもそらせない。
永遠にも感じる一瞬が過ぎる。

重なり合った瞳の、その、深く澄んだ紫の色。
あまりに印象的で、心の奥に焼き付くような、そんな色。
この瞳の色どこかで。そうだ、マルセル様に頂いた花と同じ色。
アンジェリークがそう思うのとほぼ同時に。
クラヴィスはアンジェリークを抱きしめていた。


アンジェリークは何故か驚かなかった。そして、驚かない自分を受け入れていた。
アンジェリークが顔を上げ、再び瞳が重なり合う。
深い、神秘な瞳の色。
この人もやはり、かつて辛い恋をしたのかもしれない。
何故かそう思う。
ああ、そうか。そしてこの月さえも眠る夜に私と同じ想いを抱えてる。
頬にあてられた陶器のような白く冷たい指先から伝わってくる何か。
彼女もまた、夜に冷えたその小さく細い指を彼の頬にあてる。

今、このひとは何を思っているのだろう?
少しずつ、でも確実に早くなっていくふたりの鼓動。
これは、この気持ちは。
恋でなく。
でも恋にも似て。

―― 切なくて、痛い。

この痛みは私のもの?
それともあなたのもの?
あなたも今、同じ痛みを感じているのでしょう?
そう、私にはそれがわかる。この、切り裂かれるほどに痛い
心の、痛みを。
言葉はなかった。
ただ、瞳が語りあう。

あなたが
おまえが

欲しい

どちらからでもなく静かにふれあった唇。
まるで風に運ばれた花弁がふれたかのような、幽かなくちづけ。
それでも、ふたりの合図には十分だった。
ふたたび交わされたくちづけは、魂さえからみとるかのように互いを貪る。
熱いようでいて、どこまでも冷ややかに。
ふれあう唇。
ふれあう魂。
そこから流れ込む互いの痛みを消すかのようにいだきあう腕に力が入る。

厚い雲が星々を隠し始めたことに、
ふたりはもう
気付かない。


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